「クロスは柄が変わるので全面張り替えになります」「フローリングは一部だけ交換できないので全面交換です」。退去の精算で、このセリフを言われたことはありませんか。どちらも業者側が一番つつきやすいポイントで、国土交通省のガイドラインを知っていれば、そのまま飲む必要のない話です。
ただ、そのガイドラインの実物はかなり分厚く、正直、一般の方が通読するものではありません。私は売買がメインの現役不動産営業(6年半)なので、退去精算に立ち会う側ではありません。ただ業界の内側にいると、どこを突かれると借主が弱いかは見えています。
この記事では全部を読ませません。退去を控えた人が見るべき箇所だけに絞ります。読み終えると、請求書のどの項目に「それは違います」と言えるのかが分かります。原文は国交省の公式ページで無料公開されています。
まず知っておくこと:ガイドラインは「法律」ではない
最初に位置づけを正確に。このガイドラインは法律ではなく、トラブル防止のための指針です。ただし、次の2点で実務上の重みがあります。
- 過去の裁判例や取引の実務を踏まえて整理されており、裁判や調停でも参照される「事実上の標準」であること
- 2020年施行の改正民法で、経年劣化・通常損耗は借主の原状回復義務に含まれないことが法律の条文にも明文化されたこと(ガイドラインの考え方が法律で裏打ちされた形です)
核心はこれだけ:「原状回復」は「入居時の状態に戻す」ではない
ガイドラインの一番大事な一文を要約すると、こうなります。
原状回復とは、借主の故意・過失や通常でない使い方によって生じた損耗を復旧すること。普通に住んで生じた損耗(通常損耗)と時間経過による劣化(経年変化)を元に戻すことではない。
つまり「新品に戻す費用を払う義務」は最初からありません。この一点を知っているだけで、退去精算の見え方が変わります。
負担区分の早見表
貸主負担になるもの(通常損耗・経年変化)の例
- 家具の設置による床・カーペットのへこみ
- 日照によるクロス・畳の変色
- テレビ・冷蔵庫の背面の黒ずみ(電気ヤケ)
- 画鋲・ピンの穴(下地ボードの張り替えが不要な程度)
- 次の入居者確保のためのハウスクリーニング・鍵交換(特約がない場合)
借主負担になるもの(故意・過失・善管注意義務違反)の例
- 飲み物をこぼした後の手入れ不足によるシミ・カビ
- 結露を放置して拡大させたカビ・シミ
- タバコのヤニ・臭い
- ペットによる柱・クロスの傷や臭い
- 釘穴・ネジ穴(下地ボードの張り替えが必要な程度)
- 掃除を怠ったキッチンの油汚れ・水回りの水垢
境界線の感覚は「普通に住んでいて避けられないか、手入れで防げたか」です。同じカビでも、構造上の結露なら貸主側、拭けば防げたのに放置したなら借主側、という分かれ方をします。
内側の実感を足しておくと、借主負担の中で一番見逃されがちなのが、この「手入れを怠った」系、いわゆる善管注意義務違反です。水回りの掃除を怠って大量発生させたカビ、窓枠の結露を放置してできたカビ。このあたりは業者側から一番つつきやすいポイントです。退去が決まったら、水回りと窓枠だけでも手入れしておくと、突っ込まれる材料が減ります。
もう一つの柱:経過年数の考慮
借主負担になった場合でも、設備の経過年数に応じて負担額は減額されます。クロスは6年で残存価値1円という考え方です。この仕組みは退去費用は6年住むと安くなる?で詳しく解説しているので、ここでは「借主負担=全額負担ではない」とだけ押さえてください。
「補修の単位」も決まっている
見落とされがちですが実務で効くポイントです。ガイドラインでは、借主負担となる場合の補修の範囲も限定的に考えます。
- クロス:損傷箇所を含む1面分までが基本(部屋全体の張り替え費用を負担させるのは行き過ぎ)
- 畳:原則1枚単位
- フローリング:原則㎡単位の部分補修
「壁一箇所の傷で、部屋全部のクロス張り替え代を請求されている」ような精算書は、この考え方と照らして確認する価値があります。
実務の本音も書いておきます。「クロスは柄が変わるから全面張り替え」「フローリングは一部だけ交換できないから全面交換」と平気で言ってくる業者がいます。ぼったくり請求の定番トークです。ガイドラインの補修単位を知っているだけで、この手の請求には根拠を持って反論できます。
ガイドラインの限界:特約には勝てないことがある
公平のために、ガイドラインの限界も書いておきます。賃貸借契約は当事者の合意が基本なので、契約書に有効な特約があれば、そちらが優先される場面があります。典型はハウスクリーニング特約です。
ただし特約も無敵ではなく、内容が具体的で、借主が理解して合意しており、金額が暴利でないことが求められるのが判例の傾向です。「特約だから」と言われたら、金額の相当性まで確認してください(対処の手順は敷金が返ってこないときに確認する3つのことへ)。
私の印象では、クリーニング費用は今の契約ではほとんどの場合、特約に組み込まれています。なので「クリーニング代は貸主負担のはず」と構えるより、金額が部屋の規模に見合っているかを見るほうが実戦的です。ワンルームなのに相場からかけ離れて高い、というような場合は交渉の余地があります。
実務での使い方3ステップ
- 退去前:上の早見表で、自分の部屋の損耗がどちら側かをざっと仕分けしておく
- 立ち会い時:金額同意を含む書面への即サインを避ける(立ち会いの記事参照)
- 精算書が来たら:負担区分・経過年数・補修単位の3点で検算し、おかしければ根拠付きで問い合わせる
まとめ
- 原状回復=入居時の状態に戻すこと、ではない。通常損耗と経年変化は貸主負担
- 借主負担でも「経過年数の考慮」と「補修単位の限定」で減額される
- ガイドラインは法律ではないが、民法の明文化と裁判実務に支えられた事実上の標準
- 特約は優先されうるが、有効性と金額の相当性は確認してよい
【免責事項】本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、法的助言ではありません。負担区分は契約内容と個別の損耗状況により判断が分かれます。トラブルの際は消費生活センターや弁護士等の専門家にご相談ください。




